令和の教科書に
有掲載されている語
大正本文の語のうち、令和の教科書の紙面にも見えるもの。
- 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
- 熊襲(クマソ)
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10頁/画像ファイルを選択・ドラッグ神武天皇はかく大和地方を平げ給ひしが、其の後御數代の間、遠き國國にはなほ天皇の命に從はざるものありき。崇神天皇の御代に至り、四道に將軍をつかはして、之を平げしめ給へり。これより遠方の國國も天皇の御威德を仰ぐに至れり。
然るに景行天皇の御代に至り、九州の熊襲叛きて、其の勢盛なりき。熊襲とは其の頃九州の南部に居たる種族なり。天皇皇子日本武尊をつかはして之を討たしめ給ふ。尊は此の時御年僅かに十六なりしが、仰に從ひてただちに九州に至り、少女の姿に身をかへて熊襲のかしらに近づき、之をさし殺し給へり。
其の後東國の蝦夷叛きて、其の勢また盛なりしかば、天皇更に尊をして之を征伐せしめ給ふ。此の時尊は伊勢に至り、皇大神宮を拜し、神劍を奉じて東國に向ひ給へり。
尊の駿河に至り給ひし時其の地の賊尊を欺きて野原にみちびき奉り四方より草を燒立てて尊を弑し奉らんとせしかば、尊は神劍をぬきて草を薙ぎはらひ、賊どもを滅し給ひき。此の神劍は三種の神器の一つにして、これより草薙劍と申すこととなれり。
尊はこれより、ことごとく東國を平げ給ひ、御歸路において薨じ給へり。尊の御勳によりて、西も東も皆平ぎ、皇威は益遠方まで及びたり。後に尊の御子天皇の位に即き給ふ。これを仲哀天皇と申す。
神武天皇はこのように大和地方を平定されたが、その後、何代かにわたって、遠方の国々にはなお天皇の命令に従わない者がいた。崇神天皇の時代になって、四方の地域へ将軍を派遣し、これらの土地を平定させられた。それ以降、遠方の国々も天皇の威徳を仰ぐようになった。
ところが景行天皇の時代になると、九州の熊襲が反抗し、その勢いが盛んになった。熊襲とは、当時、九州南部に住んでいた人々のことである。天皇は皇子の日本武尊を遣わして、熊襲を討たせようとなさった。尊はこのとき、わずか16歳であったが、命令に従ってすぐに九州へ向かい、少女の姿に変装して熊襲の首領に近づき、これを刺し殺された。
その後、東国の蝦夷が反抗し、こちらも勢いを増したので、天皇は再び日本武尊に征伐を命じられた。このとき尊は伊勢へ行き、皇大神宮を拝み、神剣を携えて東国に向かわれた。
尊が駿河に到着されたとき、その土地の賊が尊をだまして野原へ連れ出し、四方から草に火をつけて尊を殺そうとした。そこで尊は神剣を抜いて草を薙ぎ払い、賊たちを滅ぼされた。この神剣は三種の神器の一つであり、この出来事以来「草薙剣」と呼ばれるようになった。
その後、尊は東国をすべて平定されたが、帰り道で亡くなられた。尊の功績によって、西も東も平定され、天皇の威光はさらに遠方まで及ぶようになった。のちに尊のお子が天皇の位に就かれた。この天皇を仲哀天皇という。
令和の教科書に
大正本文の語のうち、令和の教科書の紙面にも見えるもの。
令和の教科書に
大正本文にあり、令和の教科書の紙面には見えないもの。